バイデン政権が検討し始めたデジタル貿易協定はなぜ必要か?(2021年8月 JBpress掲載)
2021年7月、米国のバイデン政権がアジア太平洋地域におけるデジタル貿易協定の締結を検討していることが明るみに出た。従来、国家間の貿易協定は物品貿易にかかる関税の引き下げが最大の課題だったが、主要な国・地域間では関税の引き下げが概ね実現している。その中で、グローバル規模でのデジタル化の進展とともに、物品の関税を対象とした従来型の貿易協定に代わり、「デジタル貿易協定」の議論が急速に進みつつある。
今回、バイデン政権が検討しているデジタル貿易協定は、GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)に代表されるITプラットフォーマー企業に加え、製造業や小売業など多岐にわたる産業に影響を及ぼすものだ。それにもかかわらず世間の認知度は低い。様々な国家や企業の利害が交錯し、国際的に統一されたルールがいまだ存在しないこともその一因だ。だが、デジタル貿易協定の動向はグローバルな企業活動に新たな価値を与える可能性もあるため、正しく理解することが肝要だ。
※2021年8月27日付のJBpressの記事を一部変更して掲載しています。
世界で分断されつつあるデジタル経済圏
デジタル貿易協定とはいかなるものか。明確な定義はないものの、2018年12月に発効したTPP11(環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定)の電子商取引章で取り入れられた「TPP3原則」と呼ばれる3つの要素が基礎となることが多い。すなわち①国境を越えるデータの自由な移転、②サーバー等のコンピュータ関連設備の自国内設置要求の禁止、③ソースコードの移転・開示要求の禁止の3要素であり、いわゆる「デジタル経済圏」を構築するために必要な要素だ。
この他にもデジタル貿易協定では、デジタルコンテンツを国境を越えて送信する際に関税を課さないこと、電子署名の有効性の確保、個人情報の保護などを定めている。最近では、2020年12月にシンガポール、チリ、ニュージーランドの間で発効したDEPA(Digital Economy Partnership Agreement)において、Fintech分野の協力、AI ルールの策定、政府保有データの利用促進等、新たな分野での取り組みも定められた。協定はデータの移転に加え、FintechやAIなど先進的なデジタル技術の活用にも及んでいる。
デジタル貿易協定がない場合に起こりうること
デジタル貿易協定はTPP11などの地域間の貿易協定の一部になっている他、2017年以降はWTO(世界貿易機関)の有志国間でも議論が進められている。しかしながら、WTOでは様々な国や地域の利害関係が絡まり議論の着地点がまだ見えていない。
米国、日本、オーストラリアなどデータの自由な移転を促進する先進国、データの囲い込みを要望する中国、インド、インドネシアなどの人口大国、デジタル貿易の促進によって国内市場が巨大プラットフォーマーに収奪されることを恐れる発展途上国の意見の対立など構図は複雑だ。このため、当面は地域ごとにデジタル貿易協定が乱立する可能性が高い。なお、日本はTPP11に加え、日米デジタル貿易協定、日英EPA(包括的経済連携)やRCEP(東アジア地域包括的経済連携)等においてデジタル分野の規定がある。
先に触れたように、デジタル貿易協定は、ITプラットフォーマー企業だけでなく、製造業や小売業など幅広い産業に影響を及ぼす。代表的な例としては、「TPP3原則」でも挙げた国境を越えるデータの自由な移転と、サーバー等のコンピュータ関連設備の自国内設置要求の禁止が国家間で約束されていない場合、ある国で収集・生成したデータを当該国外に持ち出せなくなる場合がある。
iPhoneユーザーは中国政府に監視されている?
2021年5月に米国企業のAppleやテスラが中国にデータセンターを設立したのもこのためだ。中国では、2017年6月に施行されたサイバーセキュリティー法によって、中国国内で収集・生成する個人情報と重要データを中国国内で保管することが義務付けられている。2021年8月には個人情報保護法が新たに成立し、個人情報の国外移転がさらに厳しく制限されることとなった。
Appleは、中国で取得した顧客の個人情報を中国貴州省の政府関係企業(GCBD:Guizhou-Cloud Big Data Industry)が運営するデータセンターに保管する。米国の規制ではAppleが中国当局にデータを渡すことは禁じられているが、GCBDは中国におけるAppleのデータの法的な所有者となるため、中国当局はAppleではなくGCBDを通じてデータを要求することができるとされている。
また、Apple自身は否定しているため真偽は定かではないものの、ニューヨーク・タイムズは、Appleは中国政府の要求によって独自の暗号化技術を破棄したと報じている。顧客情報のみならず、顧客情報の分析手法などプラットフォーマーのビジネスモデルの根幹に関わる部分も中国政府にアクセスされる可能性が否定できない。
なぜテスラは中国にデータセンターを設立したか
テスラは、中国で販売する電気自動車や自動運転車から取得されたユーザーの位置情報、中国の地理情報、車内カメラが撮影した映像等のデータを米国に送信しているとの疑いをかけられ、中国国内にデータセンターを設立した。
中国固有の事情に特化したデータであれば中国国外に持ち出さずともさほど問題は無いとも考えられるが、自動運転の開発を左右するデータを持ち出せないとすると、中国外でも莫大なデータを再度取得する必要が生じ、開発面での大幅なコスト増加に繋がる。これらのことからも、デジタル貿易協定が未整備で国境を越えたデータの自由な移転が認められない場合、企業収益の根幹にかかる情報を意図せず外国政府にアクセスされる危険性が高まることや、イノベーションの促進が阻害される可能性があることが想起される。
米国が企図するアジア太平洋地域におけるデジタル貿易協定については、対象国、内容ともに明らかになっていないが、複数メディアが中国を排除した上で、国境を越えたデータの利用、データ保護、AIにかかる標準等を定める協定になると報じている
地域ごとに異なるデジタル貿易のルールが乱立することは決して望ましくない。だが、WTOにおける複数国間の議論の収斂が見込めない現状を鑑みると当面は国際的に統一されたデジタル貿易協定の成立は期待できず、特定の国・地域間での議論が先行すると想定される。
グローバル企業に必要な「データ持続性」とは何か?
2017年には、国際関係で著名な学者パラグ・カンナ氏の著書『接続性の地政学』が一世を風靡した。地理的な「国境」ではなく、交通、通信、エネルギーなどのインフラ整備による国家の枠組みを超えた「接続性」で世界を見るべきだと説いた書籍だ。
当時のパラグ・カンナ氏はインフラとしての「通信ネットワーク」に主眼を置いていたが、今後はこれに加え、データ移転の自由度を指す「データ接続性」にも着目すべきだ。現在、企業の「資産」としてデータの価値を評価する取り組みが急速に進んでいるが、データそのものの価値に加え、「接続性」も評価の一環になると考えられる。
グローバルに展開する企業は、「データ接続性」を新たな資産と捉えた事業戦略を構築すべき時代に入っている。
株式会社オウルズコンサルティンググループ
チーフ通商アナリスト
福山 章子
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