意外に知られていないIPEF、インド太平洋における経済ルールはどう変わるか(2023年11月 JBpress掲載)
2023年11月16日、米サンフランシスコにおいて開催された首脳会合をもって、「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(Indo-Pacific Economic Framework for Prosperity:IPEF)」の交渉は大きな区切りを迎えた。今回の成果に関し、今後の実行への期待を込めてこれを評価する声もあれば、期待された成果に届かなかったことへの失望や、その意義や効果に疑問を投げかける声もある。
※2023年11月21日付のJBpressの記事を一部変更して掲載しています。
今回の成果には失望の声も
今回の成果は、IPEFで交渉されていた4つの柱のうち、「サプライチェーン」については協定に署名、「クリーン経済」と「公正な経済」については交渉が実質妥結、残る「貿易」については継続交渉となった。合わせて、IPEF全体の運営に関する協定(「IPEF協定」)の交渉も実質的に妥結した(図表)。
今回の成果を評価しない人々は、交渉を主導してきた米国の姿勢と、その結果として「貿易」交渉が実質妥結に至らなかったことを問題視している。IPEFについては、その立ち上げ時から、関税の削減・撤廃といった市場開放が交渉対象となっていないことが強い批判を浴びていた。労働や環境、デジタル経済といった分野で、米国をはじめとする先進諸国が望む高い水準のルールに関する合意を新興国・途上国から得るには、その見返りとしての「実利」が不可欠であり、その最大のものが米国市場の開放である、というものだ。市場開放を交渉対象に含まないことをアジアからの参加国の交渉担当者は、IPEFは「黄身のない目玉焼き」だと評した。これは、国内産業と雇用の保護のため、市場開放に消極的なバイデン政権の姿勢を反映したものだ。
積み残された「貿易」
米国の国内政治の影響も大きかった。米議会の民主党議員は、IPEFにおいて労働者の権利と環境の保護に関して実効性のある規定を強く求めていた。今回のIPEF閣僚・首脳会合の直前には、強制力のある労働条項が含まれなければ「貿易」について何ら合意すべきでないとの声が民主党議員から上がり、バイデン政権もこれに応じざるを得ない状況にあったと報じられている。
デジタル経済では、米国の政策転換が交渉の構図を大きく変えた。デジタル経済分野では、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の電子商取引章に盛り込まれ、「TPP3原則」とも称される「データの越境移動の自由」、「コンピューター関連設備の国内設置(データローカライゼーション)要求の禁止」、「ソースコードの開示・移転要求の禁止」という規定がある。米国はこれらの規定が貿易協定に盛り込まれることを重視し、日米デジタル貿易協定や米墨加協定(USMCA)にも規定されている。
しかし、これらの規定はITプラットフォーマーを利するだけだとの国内の声に押され、バイデン政権は10月下旬になって世界貿易機関(WTO)で行われている電子商取引交渉において、これらの規定への支持を撤回した。これには、産業界をはじめ、米国内でも強い反発が生じたが、バイデン政権はIPEFの「貿易」交渉においても同様の交渉方針の転換を行った。TPP交渉に参加してこれら規定に合意し、WTO電子商取引交渉の共同議長を務め、IPEFにも参加している日本、オーストラリア、シンガポールは、はしごを外される形となった。
そもそもIPEFは、TPPからの離脱を含む前政権の政策により、インド太平洋地域における経済的リーダーシップを大きく損ねた米国による失地回復策、一帯一路等によって同地域での影響力を拡大してきた中国への対抗策という意味合いがある。にもかかわらず、こうした米国の国内事情が大きく影響して「貿易」交渉が積み残しとなったことが、IPEFの意義への疑問や交渉成果への失望を招いたことは否定できない。
「現実解」として評価できる今回の成果
しかし、筆者は、IPEFの意義と今回の成果を好意的に評価したい。これは、「コップに入った半分の水」ということになるだろうか。世界情勢や米国を含むIPEF参加各国の国内事情を鑑みれば、コップに半分の水を入れられた今回の成果は、現実解として悪くないものではないだろうか。
今回、IPEFの4つの柱のうち、1つでは協定に署名され、2つについて交渉が実質妥結に至った。IPEF立ち上げが2022年5月であるから、そこから1年半での成果である。首脳声明はこれを「記録的な速さ」と誇っているが、政治的にも経済的にも多様な14カ国が参加する交渉でのこの成果は、誇りたくなる気持ちもわかる。
特に注目されるのは「サプライチェーン協定」である。閣僚会合後の報道発表(プレスステートメント)では、同協定は「サプライチェーンの途絶に対する危機対応能力を向上させ」、「サプライチェーンを強化するためのビジネスマッチング及び投資を円滑化し」、「重要分野及び重要物品のサプライチェーン強靭性を向上」させるものだとしている。協定条文をみる限り、参加各国の政策調整や協調がうまく機能し、実際に事業を行う企業がこれに積極的に参画すれば、同協定はサプライチェーンの強靱化に資するものとなり、日本や参加各国の経済安全保障の強化につながることが期待できる。
「クリーン経済協定」と「公正な経済協定」の詳細はまだ不明だが、それぞれメリットが期待できそうだ。「クリーン経済協定」では、参加国のクリーン経済への移行のため、「クリーンエネルギー及び気候に優しい多様な技術に関する研究、開発、商用化」や、「高品質で、信頼性が高く、経済的に実行可能な電力網と小規模な電力網の地域における開発を支援」、それらのための投資や資金調達の促進・円滑化のための取り組みが合意された。また、同協定では、クリーンエネルギーのサプライチェーン強化のため、「重要鉱物・物資を含むクリーンエネルギー技術に不可欠な資源」の確保についても取り決められているが、首脳声明では「IPEF重要鉱物対話」を立ち上げることも明らかにされた。新興国の脱炭素化を支援するため、日米両国はオーストラリアとともに約3000万ドルを拠出して基金を創設することに加え、それぞれ投資や資金拠出の計画も公表している。
さらに、同協定は、具体的な協力を進めていくために「協力作業プログラム(Cooperative Work Programs:CWP)」を作成するとしており、最初のCWPとして、「域内水素イニシアチブ」がすでに立ち上げられている。今後の検討対象として、バイオ燃料やクリーン電力、持続可能な航空燃料等が候補として挙げられている。「公正な経済協定」では、贈収賄を含む腐敗行為やマネー・ローンダリングの防止、租税に関する透明性や効率的な税務行政の確保等によって「より高い透明性及び予見可能性のあるビジネス環境」を構築し、「貿易及び投資環境を改善するため」に参加国が協働することが約束されている。
具体化で生まれるビジネス・チャンス
このように、IPEFには、参加する新興国に実利をもたらし、企業の参加を促す仕掛けが盛り込まれている。岸田文雄首相は、「IPEFは、地域における持続可能な経済成長に欠かせない、時代の要請を極めて的確に反映した枠組み」だと高く評価している。同時に、IPEFをより一層意義あるものにするためには、すべての参加国の積極的な関与が重要であり、「ハイスタンダードなルール・基準を策定することに加え、参加国の関与を促し、具体的な協力案件を形成することが不可欠」だと指摘している。「黄身のない目玉焼き」には、まさにこれが必要であり、今回「黄身」に代わる取り組みが合意されたと言ってよいのではないだろうか。
日本企業も、そこに生まれるビジネス・チャンスをものにするためには、「コップの水」が満杯になるのを待つよりも、半分のうちから動き出した方がよいのではないか。
株式会社オウルズコンサルティンググループ
プリンシパル(通商・経済安全保障担当)
菅原 淳一
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