本連載では、激動の地政学動向において企業が取り組むべき5つの指針を示している。
前回「規制とイノベーション進化の両立は可能か」では、デジタル分断を余儀なくされる新たな世界においては、データの保護・利活用という観点から市場や開発拠点を再評価する必要が生じていることを述べた。今回は、指針4「地政学リスクに伴うコストアップへの対処が経営の腕の見せ所」について詳しく語る。
※2023年11月2日付のJBpressの記事を一部変更して掲載しています。
「在庫の最小化」「工場稼働率の最大化」という哲学からの卒業
日本の製造業で働くビジネスパーソンは、長らくサプライチェーンマネジメントには二つの絶対真理があると教えられてきた。それはコスト削減およびキャッシュフロー改善のための「在庫の最小化」と「工場稼働率の最大化」だ。
事実、パソコンなどの商品サイクルが短い商品は、市場に半年滞留すれば価格下落で赤字化することも多い。いかに無駄なく、適時(ジャスト・イン・タイム)で供給網を組むかが至上命令だったのだ。あくなき「筋肉質」追求のサプライチェーンマネジメントだ。
だが、極限まで体脂肪を減らしたボディビルダーが、免疫力低下などで不健康になるのと同様、「在庫の最小化」と「工場稼働率の最大化」という効率化一辺倒のサプライチェーンは不安が多いことが共通認識となってきた。
アジアでの天災による自動車部品製造のストップで大きな損害が発生し、コロナ禍ではマスクの供給不足で官民ともパニック。そして近年の地政学リスクの高まりにより、いよいよサプライチェーンマネジメントとして信じる「哲学」から変わろうとしている。今日のサプライチェーンには、危機を乗り越える「レジリエンス(回復力・弾性)」が求められる。そのために丁寧にデザインしなければいけないのが「冗長性」だ。経済合理性を維持しつつも、有事における供給の脆弱性を回避し、事業の継続性を確保する体制への転換が不可避だ。
輸出拠点・中国から撤退した際に発生する驚愕のコスト
コンサルティングの現場において、企業による地政学リスク対応の真剣度を見定めるモノサシがある。それは、重要サプライチェーンの脆弱性を回避する過程で「コストアップする」覚悟を経営が持っているかどうかだ。昨今のグローバルな物価高においてコストアップを避けたいのはどの会社も同じ。それでも地政学リスクへの対応には、一足飛びに開発生産拠点のシフトとまでいかなくとも、サプライヤーの多様化や在庫ポリシーの変更など、一定のサプライチェーン冗長性に伴うコスト増を覚悟する必要がある。
脱中国サプライチェーン構築に取り組む際、日本国内でどの程度のコスト増が見込まれるかについて日本経済新聞とオウルズコンサルティンググループで試算した結果がある(2022年)。仮に全企業が即時「輸出拠点としての中国」から撤退したという前提だが、日本全体で初年度に年間13.7兆円ものコストが発生する可能性がある。内訳は、撤退コスト、生産移管による製造原価増、生産拠点分散による販管費増、設計見直しおよび品質評価コストだ。
サプライチェーンの強靭化にはこれらコストアップが伴うことを理解しつつも、いざ具体的アクションに入ろうとするとそこから目を背ける経営者が多いことも事実だ。調達先を多様化させることでコスト増が見込まれると、決まって聞かれるのは「事業部が納得しない」という躊躇の声。これをどう乗り越えるかに知恵を絞らなければ、ある日、地政学リスクが顕在化し、特定市場での事業撤退や製品・原材料の調達不能といった事態が発生して途方に暮れる。
地政学リスクを市場獲得の「機会」と捉えたアップル
では、コストアップの分は利益を減らして耐えれば良いのか。そうではない。
米中対立をはじめとしていま見通されている地政学的リスクは長期に継続する可能性が高く、サプライチェーンの安定化に必要なコストは、特別損失として一時しのぎする性質ものではない。必要なのは「個々のサプライチェーンのコストは上がっても、事業全体のコストアップは避ける」事業戦略だ。この俯瞰的な視点を持てた企業は地政学リスク対応が進んでいると言っても過言ではない。地政学リスク対応をしながら、事業全体の収益性を保つのが経営手腕の見せ所だ。例えば、製品やサービスのラインナップの整理が、その方法の際たる例だ。自動車業界で見られるような、グループ内でのブランドの垣根を越えたプラットフォームの共通化による設計標準化や開発期間短縮なども好例と言える。
地政学リスクを新たな市場獲得を後押しする「機会」と捉える企業もいる。
従来中国をサプライチェーンの最大拠点と位置付けていたアップルは、インドへのシフトを急速に進めている。主要サプライヤーである鴻海精密工業とも連携し、インドでのiPhone生産を大幅に増強中だ。インドへの生産シフトは地政学リスクへの対応だけでなく、コストダウンの効果も期待できる。さらに、スマホ市場としてのインドのポテンシャルを活かすべく、本年4月にインド初の直営実店舗を開設した。影響力の大きいアップルの大胆かつ迅速な動きは、他のグローバル企業をリードする可能性も高い。
初期対応をミスったファストリの「しくじり」
一方、経営としてはこの未曾有の地政学リスクへの対応をステークホルダーに自ら積極的に説明し、理解を求めるべきだ。
例えば「台湾有事」の可能性に対応するならば、その必要性や事業継続計画(BCP)の責務について堂々と(個別の国や地域に対する言及の有無は判断によるが)株主や顧客に語るべきだ。人知れずこっそりと地政学リスク対応のコストを甘受して最終決算を傷めるだけなら、本社部門の力不足と言わざるを得ない。これを好機として事業変革を推進し、その成果を併せて発信すればステークホルダーからの新たな信頼も勝ち得るだろう。有事を想定したBCP整備も積極的に発信し、自社の評価を高める原動力の一つとして活用しなければならない。
地政学リスクへの対応がステークホルダーから違和感を持たれれば批判の対象ともなり得る。
ウイグル人権問題に対するファーストリテイリングの初期対応がもたらした混乱はその例にあたるだろう。同社は人権デュー・ディリジェンスの実施などで国際NGOから高く評価されていたにもかかわらず、記者会見で問われた際に強制労働問題に関するコメントを避けるなどの対応が国内外からの批判を集めた。地政学リスクに十分対応していること、そしてその結果コストアップしているがそれはステークホルダーの利益に資することを、胆力を込めて堂々と発信することが必要だ。
地政学リスクが高まるいま、経営者に求められる役割は重みを増している。
株式会社オウルズコンサルティンググループ
代表取締役CEO
羽生田 慶介
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