※「明日の食品産業」2023年3月号の記事を一部変更して掲載しています。
重要な経営アジェンダとなった「ビジネスと人権」
近年、「ビジネスと人権」「人権デュー・ディリジェンス」といった単語を経済紙やニュースでよく目にするようになったと感じている方は多いのではないでしょうか。かつては道徳や倫理を説く文脈で用いられることの多かった「人権」というキーワードですが、現在では企業経営の根幹に関わるテーマとして注目を集めています。
2022年9月には日本政府が「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を発表し、経済界で話題を呼びました。昨今、企業に「ビジネス(及びサプライチェーン)における人権尊重」への取り組みを求める議論が国内外で加速していることを受け、日本企業の取り組みを国として後押しすべく策定されたものです。本ガイドラインの発出をきっかけに人権対応の必要性を認識し、取り組みを急いでいる企業も多いでしょう。また農林水産省も、食品産業向けの独自指針を2023年夏までに取りまとめる予定と報じられています。
ビジネスにおける人権対応の重要性が国際社会で再認識された契機の一つとしては、中国・新疆ウイグル自治区における強制労働疑惑が挙げられます。2020年にオーストラリアのシンクタンクが調査報告書を発表し、同自治区で行われているウイグル族への弾圧や強制労働の実態を報じると共に、82社のグローバル企業が取引先の中国工場を通じて強制労働に関与していると指摘しました。名指しで批判された企業の中には日本企業も含まれており、国内でも注目を集めました。この問題を受け、米国は2022年6月に「ウイグル強制労働防止法(UFLPA)」を施行しています。特定の条件を満たす場合を除き、全ての新疆ウイグル自治区関連産品の米国への輸入が原則として禁止された形です。同法の施行により、サプライチェーンの見直しや再構築を余儀なくされている企業も少なくありません。
加えてここ数年のうちに、ミャンマーでの軍事クーデターやロシアによるウクライナへの軍事侵攻など、基本的人権や平和そのものを脅かすような危機的事態が世界各地で起こり、国際社会を揺るがしています。現地に拠点を持つ多くの企業も、人権侵害への加担を避けるべく慎重な対応や経営判断を迫られています。こうした国際情勢下で、「ビジネスにおける人権尊重」は今や企業経営における最重要アジェンダの一つとなっているのです。
各国で進む「人権デュー・ディリジェンス」の法制化
2010年代以降、企業に「ビジネスと人権」への取り組みを義務付ける国際的なルール形成も急速に進んでいます。大きな契機となったのは、2011年に国連で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」(国連指導原則)です(図表 1 )。この指導原則は、規模や業種に関わらずあらゆる企業に「人権を尊重する責任」があること、そして「企業が自ら直接引き起こしている人権侵害だけでなく、間接的に負の影響をもたらしている(事業・製品・サービスと結びついている)人権侵害にも対応しなければならない」ことを初めて明言した国際的な文書として注目を集めました。
同原則は、全ての企業に対し、人権尊重の責任を果たすための適切な対応を求めています。具体的には、人権尊重へのコミットメントを示す「人権方針」を策定すること、自社が及ぼしうる人権への負の影響(悪影響)を特定・防止・軽減する「人権デュー・ディリジェンス」と呼ばれるプロセスを実施すること、そして負の影響が発生した場合に是正・救済するための仕組みを整備することです。この考え方及び企業への要求事項が、現在制定されている各国法を含む全ての関連ルールの基盤となっています。
指導原則の採択前後から、欧米を中心に、企業に人権デュー・ディリジェンスの実施などを義務付ける法整備が進んできました。2010年に米国カリフォルニア州で「サプライチェーン透明化法」が制定されたのを皮切りに、イギリス(2015年)、フランス(2017年)、ドイツ(2021年)など、法制化に踏み切る国が続々と現れています。
さらに、欧州委員会は2022年2月に「企業持続可能性デューディリジェンス指令案」を発表しました(図表 2 )。欧州での売上高や従業員数が一定水準を超える企業に対し、企業活動を通じた人権や環境への悪影響を予防・是正する義務を課すもので、今後発効に至った場合、EU加盟国は国内での法制化を義務付けられることとなります。違反企業には、加盟国が売上高に応じた罰金を科す仕組みです。産業界からは反対意見もあり議論の行方が注視されていますが、採択された場合は世界的に大きな影響をもたらす見込みです。
こうした政府主導型の法整備に加え、民間企業によるルール形成も加速しています。「調達ガイドライン(調達基準)」を策定し、取引先に人権・環境等への配慮を求めることを明示する企業が増えています。顧客企業の基準を満たせない場合、調達から排除されてしまう可能性があるのです。人権対応を怠る企業は、もはや競争力を維持できない時代になりつつあります。
食品産業で注意すべき「人権リスク」の例
人権対応の推進に際しては、自社の事業が引き起こしうる人権への負の影響、つまり「人権リスク」の把握が必要不可欠です。企業が配慮すべき「人権リスク」の範囲は、児童労働・強制労働、長時間労働、ハラスメントや差別など、多岐にわたります。その中でも優先的に取り組むべき「重要人権リスク」を特定し、予防・是正策を検討していく必要があります。
食品産業における重要人権リスクの代表例としては、まずサプライチェーン上の児童労働や強制労働が挙げられます。世界の児童労働者の70%が第一次産業に従事しており、カカオ・コーヒー豆・サトウキビ・魚・エビなど、特定地域での児童労働が問題視されている農産品・水産品が多くあります。また、海外の食肉加工工場や漁業の現場において、移民など立場の弱い労働者の強制労働が問題となった例も多数見られます。前述の新疆ウイグル自治区ではトマトの生産が盛んですが、昨今の強制労働問題を受け、一部の国内企業は同自治区からの調達を停止しています。
そもそもサプライチェーンの末端にいる小規模農家等の立場が弱く、“買い叩き”に遭いやすい構造自体も問題です。途上国の生産者と先進国の企業の間でアンフェアな取引が行われ続けることで、生産者は貧困の悪循環に陥ってしまいます。適正価格での購入を通じて生産者の生活改善を目指す「フェアトレード(公平・公正な貿易)」の取り組みが進みつつありますが、日本ではまだ充分に浸透していません。人権・環境に配慮して生産者とフェアな取引を行っていることを示す「国際フェアトレード認証」の取得製品の市場規模も、欧米に比べるとはるかに小さいのが現状です。
また、国内では近年、外国人技能実習生制度に関する人権問題が指摘され、制度自体の見直しが議論され始めています。原料をすべて国内で調達・加工していても、サプライチェーン上に技能実習生をはじめとした外国人労働者がいる場合は、賃金の不払いや劣悪な労働環境、現場での差別的な扱いなどの人権リスクへの注意が必要です。
日本企業の現状と今後求められるアクション
こうした人権リスクの顕在化を防ぐために、企業には人権デュー・ディリジェンスの取り組みが求められます。しかし、日本企業の対応は欧米と比較するとやや後れをとっているのが現状です。NGOが有名企業の人権への取り組み状況を格付けする「企業人権ベンチマーク(CHRB:Corporate Human Rights Benchmark)」では、日本企業の平均スコアは決して高くありません。また、強制労働リスクへの取り組みを評価するNGO「KnowTheChain」のベンチマークでも、高評価を得ているのは殆ど欧米企業です。
日本企業の多くは、まず前述の国連指導原則に従い、基本的な人権対応のプロセスを着実に推進していくべき段階にあります。求められる取り組みの全体像は、既に触れた通り「人権方針の策定」「人権デュー・ディリジェンス・プロセスの実施」「(生じてしまった負の影響に対する)是正・救済」から成ります。それぞれの詳細な要件やステップについては今回は紙幅の都合上割愛しますが、ぜひ日本政府によるガイドラインや、拙著(共著)「すべての企業人のための ビジネスと人権入門」等をご参照ください。
取り組みに際しては、自社の事業及びサプライチェーンの特徴を踏まえ、重要な人権リスク領域を特定したうえで予防・是正に着手することが肝要です。食品産業に顕著な人権リスク(原料生産に係る児童労働・強制労働、小規模農家への買い叩きなど)を念頭に置いた上で、自社で特に注意すべきリスクを見極める必要があります。重要リスクの特定には客観的な視点が求められるため、外部専門家(NGOやコンサルタント等)の助言を受けるのも一案です。
また、自社製品に関係の深い産品や人権課題に関する業界プラットフォーム等がある場合は、ぜひ参画することをお勧めします。例えば国際協力機構(JICA)が事務局を務める「開発途上国におけるサステイナブル・カカオ・プラットフォーム」には、製菓企業や商社、NGO等が多数参加し、持続可能なカカオ産業の実現に向けた議論を進めています。こうしたプラットフォームに積極的に参画することで、根本課題の解決に貢献しながら、自社の取り組みも加速させることができるでしょう。
フェアトレード・ラベルなど既存の認証制度の活用を
人権対応の強化に際し、多くの企業が頭を悩ませるのがサプライチェーンの管理です。自社だけでなくサプライヤーまで含めた管理が求められるため、質問票(SAQ)や実地監査を通じた状況把握に取り組む企業が増えています。この方向性自体は何ら間違っていませんが、各社が独自の調査・監査制度を一から構築した場合、サプライヤー側の対応負担が過大になってしまう懸念もあります。特に食品業界ではサプライチェーンの末端が小規模な農園・農家であることも多く、各取引先からの調査や監査に都度対応するのは難しくなりがちです。
そこで効果を発揮するのが、既存の認証制度の活用です。前述の国際フェアトレード認証をはじめ、食品業界には、人権や環境に配慮した持続可能な調達・生産を行っていることを示す様々な認証制度があります。水産物を対象としたMSC/ASC認証、パーム油のRSPO認証などがその例です。食品メーカーは、自社の仕入れる産品に関する認証制度が既に存在する場合、導入を検討することでサプライチェーン管理を効率化できる可能性があります。産品レベルでの認証だけでなく、工場などを対象とした人権・労働分野の認証であるSA8000や、バイヤーとサプライヤーの間の情報共有を支援するプラットフォーム・Sedexなどの活用も選択肢でしょう。
自社で独自の認証プログラムを構築する例もありますが、プログラムの正統性や妥当性が担保できない場合、むしろ「SDGsウォッシュ」的な動きとして批判されるリスクもあります。英大手小売のセインズベリーは、自社プライベートブランドの紅茶商品から国際フェアトレード認証ラベルを外し、「FairlyTraded」という独自プログラムに切り替えたことで英国内で批判を浴びました。「自称フェアトレード」にも関わらず国際フェアトレード認証製品のように消費者をミスリードしている、との訴えがなされ、英国広告基準局(ASA)が一部広告の取り下げと改善命令を下す事態に発展したのです。人権対応にこれから取り組む企業の場合は、一足飛びに独自の認証プログラム構築に挑むより、まずは既存認証の活用が現実的でしょう。
現時点ではやや出遅れていると言われる日本企業の人権対応ですが、古くから「三方よし」の言葉もあるように、「ビジネスにおける人権尊重」自体は日本企業にも馴染みやすい概念であるはずです。人権を尊重しない企業はもはや競争力を維持できない時代になりつつある中、業界を挙げた積極的な取り組みが期待されます。
株式会社オウルズコンサルティンググループ
プリンシパル
矢守 亜夕美
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