「インド太平洋」地域で標準化や経済安全保障に重点を置く通商枠組みが始動
昨今、メディアで「インド太平洋」というフレーズを目にする機会が多くなった。2016年8月、ケニアで開催されたアフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development)で安倍晋三首相(当時)が「自由で開かれたインド太平洋戦略(FOIP:Free and Open Indo- Pacific Strategy)外交戦略」を提唱したのが「インド太平洋構想」の発端だ。成長著しいアジアと潜在力の高いアフリカを重要地域と位置づけ、インド洋と太平洋でつないだ地域全体の経済成長を目指す構想だ。
その後、米国のドナルド・トランプ大統領(当時)も、日本の「インド太平洋」構想を受け入れ、国際社会に定着した概念であると言える。インド太平洋地域では昨今、大きく2つの通商枠組みが構築されている。日本、米国、豪州、インドの4か国で構成されるQuadと、米国のイニシアティブで始動したインド太平洋経済枠組み(IPEF:Indo-Pacific Economic Framework)だ。これらの動きが活発化した背景には、米中間の対立の継続やウクライナ危機など予期しなかった事態が起こり得る「VUCA」の時代になったことが挙げられる。「VUCA」は「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字をとったもので、未来の予測が難しくなる状況のことを示す造語だ。Quad及びIPEFは、従来の通商枠組みの主目的であった関税の削減やサービス貿易の自由化が含まれていない。それらに代わって不確実性に対応するためのルールが盛り込まれている。デジタル分野にかかるルールがその代表だ。
日米豪印でサイバーセキュリティ等の標準化を推進
Quadは、2007年に日本の安倍首相(当時)が、権威主義的な動きを強める中国に共同で対処することを念頭に、日本、米国、豪州、インドの4か国の戦略対話の必要性を訴えたことに端を発する。自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観を持つ4か国がインド太平洋地域での協力を確認する場とされた。
インドと豪州が、中国を刺激することを避けたために創設から数年間は活動が停滞していたが、両国と中国との関係が変化したことに伴い、2017年にQuadは再び動き出した。その後、米国のジョー・バイデン大統領の強い働きかけによって2021年9月に初の対面での首脳会合が開催された。「重要・振興技術」への対応がQuadの柱のひとつと位置づけられ、次世代情報通信及び人工知能に関する技術標準コンタクトグループの発足にも合意した。Quadは、発足当初は軍事・安全保障面の色合いも濃かったが、最近では経済分野にも重点を置く。
続く2022年5月には日本で首脳会合が開催された。首脳会合では、政府調達における基本的なソフトウェアセキュリティの基準を4か国で整合させることに合意した。中国からのサイバー攻撃に対応し、サイバーレリジエンスを高めることを目的とする。4か国は次のとおりに役割を分担する。豪州:重要インフラの保護、インド:サプライチェーンの回復力とセキュリティ、日本:労働力開発と人材育成の主導、米国:ソフトウェアセキュリティ標準。このほか、新たに立ち上げる国際標準協力ネットワーク(ISCN:International Standards Cooperation Network)を通じた国際標準化における協力の促進についても合意した。
また、首脳会合の共同声明では、国際電気通信連合(ITU:International Telecommunication Union)などの国際標準化機関との連携にも言及されている。ISCN等の詳細は執筆時点(2022年11月)では確認ができないが、今後、既存の国際標準化の舞台においてもサイバーセキュリティをはじめとする先端技術分野で日米豪印の連携が強化される可能性が高く、企業における国際標準化戦略のなかでも着目すべきだ。
米国は、日米豪印でハイテク中国包囲網の形成をはかる
米国は、QuadにおいてOpen RANも推進する。米国はこれまで、輸出管理改革法(ECRA:Export Control Reform Act)などの国内法の強化によって中国ハイテク企業に対する先端技術の輸出を規制し、ハイテク分野における中国企業支配の阻止を企んできた。現在ではQuadの枠組みも活用している。
米国のハイテク分野の危機感のひとつが、次世代通信網である5Gの基地局のベンダーだ。 従来の基地局の仕様では、特定のベンダー1社の機器で揃えることが一般的だった。このためベンダーとして1社が参入するとロックインされるという状況が起きていた。2021年時点では、中国のHuaweiとZTEが、携帯電話の基地局のグローバル市場の約54%を占めている(*1)。
これに対して米国が進めてきたのは、Open RANによって基地局にマルチベンダーが参入できる仕組みの構築だ。RAN 内の様々なサブコンポーネント間のプロトコルとインターフェイスを標準化またはオープン化することで単一のベンダーに依存しないモジュラー設計が可能になるとされる。Open RANが実現すれば、基地局において特定企業の寡占を防ぐことができる。
米国でのOpen RANの取り組みはQuad首脳会合以前から進められてきたが、最近ではQuadの動きとの連携がみられる。オープンなインターフェイスの標準化を目指し、米国主導で2020年5月に立ち上がったグローバルな業界団体である「Open RAN Policy Coalition」は、Quad の技術標準コンタクトグループと連携しているとされる。
2022年5月には、Quad参加国の局長級で「5Gサプライヤー多様化及びオープンRANに関する新たな協力覚書」への署名を行った。Open RANの検証、相互運用性、セキュリティに関する情報共有や試験環境の共有の可能性の検討を行うとされている。米国は、Quadを利用し、Open RANの推進において日米豪印を自国陣営に取り入れることを企図する。
IPEFでサプライチェーン強靭化のルール構築を目指す
IPEFは、2021 年 10 月末に東アジア首脳会議(EAS:East Asia Summit)において米国のバイデン大統領がインド太平洋地域の多国間の経済枠組みの構想に言及したことが出発点だ。その後、2022 年 9 月に米国で IPEF 閣僚会合が開催され、正式な交渉開始を宣言した。この時点では、米国、日本、豪州、ニュージーランド、韓国、 ASEAN7 か国(インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ)、インド及びフィジーの 14 か国が交渉に参加している。IPEFは関税削減を含まない枠組みで、「貿易」「サプライチェーン」「クリーン経済」「公正な経済」の4本柱で構成される。
このうちの「サプライチェーン」では、経済安全保障にかかる新たなルール形成を検討している。具体的には、IPEF参加国の国家安全保障、国民の健康・安全並びに各国経済の重大又は広範な混乱の防止を通じた経済の強靱性のため、「重要分野」を特定するための基準の策定等を目指す。重要分野に特定された場合は、物的インフラ及びデジタルインフラを改善するための投資の促進及び支援等が行われる。2022年5月に日本で成立した経済安全保障推進法においても、重要物資の安定供給が柱のひとつとされている。法令が指定する「特定重要物資」を生産、輸入または販売する企業等は、供給能力確保・事業継続性確保のための計画やサイバーセキュリティの対応などを国に提出し、認定を取得した場合は、国からの金融支援等の享受が可能になる。
日本の経済安全保障推進法における「特定重要物資」は、2022年11月時点で11分野(半導体、天然ガス、蓄電池、永久磁石、重要鉱物、工作機械・産業用ロボット、航空機部品、クラウド、船舶関連機器、肥料、抗菌性物質製剤)が内閣官房の有識者会議において了承されている。国民の生存に必要不可欠であることや、外部に過度に依存しているといった要件を満たした分野だ。有識者会議では、日本の経済安全保障推進法の制定にあたってIPEFの議論と歩調を合わせるべき旨が指摘されている。重要物資の供給網を検討する際、グローバルなルール動向を見据え、IPEF参加国との連携強化も視野に入れるべきだ。
IPEFで新たなデジタル貿易ルールの形成となるか
IPEFでは「貿易」の柱で議論されるデジタル貿易のルール形成も着目を集める。IPEFの正式な交渉開始前から、米国には、IPEFを活用してインド太平洋地域に米国主導のデジタル貿易ルールを導入する意図があるとされてきた。米国情報技術工業協議会によると、今日のインターネットユーザーの大多数はインド太平洋地域に所在し、2023年までに31億人に増加すると予測される大市場だ。
IPEFの「貿易」では、包摂的なデジタル貿易の推進を掲げ、デジタル経済における信頼及び信用のある環境の構築、オンライン情報へのアクセス及びインターネット利用の促進、デジタル貿易の促進、差別的慣行への対処並びに強靭で安全なデジタル・インフラ及びプラットフォームの推進等を目指す。なかでも特に、国境を越えるデータの信頼のある安全な流通、デジタル経済の包摂的で持続可能な成長、新興技術の責任ある開発及び利用促進の支援に重点を置く。
近年では、世界貿易機関(WTO:World Trade Organization)の有志国による電子商取引交渉、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)などに代表される経済連携協定、あるいはデジタル経済パートナーシップ協定(DEPA:Digital Economy Partnership Agreement)などの独立したデジタル協定においてデジタル貿易にかかるルールが相次いで導入されてきた(図3参照)。IPEFにおいて実効性を持つデジタル貿易ルールが導入されるか、注目されている。
インド太平洋地域における新たな通商枠組みは、従来の通商協定の主眼であった関税削減やサービス貿易の自由化が含まれていない。その代わりに先端技術分野をはじめとする標準化やデジタル分野のルールが盛り込まれている。事業戦略の策定にあたっては、リスク回避に加え、新たなグローバルのルール動向を活用したビジネスモデルを構築する視点も求められる。
*1:出所 dealab
株式会社オウルズコンサルティンググループ
チーフ通商アナリスト
福山 章子
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